宮崎 駿の祈り(全生園の灯)


宮崎 駿/著名動畫導演;日本漢生病大使
《朝日新聞》2002/4/20 朝刊

我常在禮拜天的時候散步。走一走大概不要兩三個小時的時間,就可以有遠離工作的感覺;哪怕只走個三十分鐘,也能把心思放空,然後隔天又神清氣爽地繼續回到桌子上工作。一個禮拜要是都不走路,便覺得又漫長又沉重;如果能稍微去散個步,就能持續工作下去。

在我散步會經過的地方當中,有一道柊樹所生的樹籬,位在國立漢生病(俗稱麻瘋病)療養院──多摩全生園那裡。現在全生園的門戶是開放的,而且樹籬有被修剪過,矮矮的很平易近人;可是之前我一直猶豫著到底要不要進去看看。我對漢生病的了解已經跟常人差不多了,它感染力弱,也不是什麼不治之症;只是政府的隔離政策讓偏見與恐慌深植人心,對根絕這種疾病毫無幫助,沒有任何助益可言。

但我並沒有好好反省、覺悟,想想自己是否擁有直視這片樹籬之後的資格;純粹因為好奇而想走進去看看,這點說實在很不禮貌。

我第一次走進全生園是在魔法公主最忙的時候。那時工作很重,又沒進展,就算散步也還是間歇性地感到不安,心想不把原地打轉的腦袋給靜一靜是不行的。就在這麼煩擾的時候,好像有某個契機指引我;在初春的慵懶午後,我突然想走到樹籬之後看看。

一開始吸引我目光的,是並排的兩行巨大櫻樹。眼前被夕陽染黃的枝幹閃耀著光芒,樹梢上的枝芽往高高的天空伸展。 

這是怎麼樣的一股生命力啊,我被震攝了。有種幾近於畏懼的情感困住了我,結果那天我就這樣回去了。

過了一個禮拜我再到全生園去,心情依然畏懼,連資料館那裡我都是屏息而入,但卻有意料之外的收穫。

沉默之中,漢生病以及要面對它的人們的紀錄,一字一句地攤在我們眼前;其中有著人類最為高貴的情操,也有社會最愚蠢的一面。
 
看到這些紀錄,與其說被走過這段歷史的人們所打動,不如說內心被他們生存的樣貌留下了印記──在這般苦難之中,他們卻能不忘歡喜和笑容。對渾渾噩噩的眾生來說,恐怕沒有像全生園這樣,可以把超脫苦難的生命看得透徹的地方了。

(我感到:)不能草率地活下去。 

就像其他經由長者的教誨、體悟到這個道理的年輕人一樣,我的心情在看過資料之後坦率了起來,然後走出了資料館。

從此之後,全生園對我來說就是一個很重要的地方。禮拜天散步的時候,我開始走到園裡面去。園裡總是又乾淨又安靜,裡面的人也都溫和有禮。有時參觀的訪客蠻吵雜的,我總狐疑地想,他們是不是有什麼地方傲慢了些。  

在園內的一角,留著許多不再使用的建築物,包括病患本身的宿舍、被帶離病患身邊的小孩住的地方,或者在北条民雄的和歌──「望鄉歌」中的中小學分校,以及圖書館。這些病患生活過的地方,照理說應該充滿著悔恨和悲哀的氛圍,卻也沒有一點可怕的感覺;站在這裡,只覺得有種嚴肅的、溫暖的心緒湧上心頭。不管看哪一棟建築,都有這種正面的感觸。
 
我想,這些從昭和時代初期建好的這些建築,都保存地相當好。同時代的建築,在東京幾乎看不到了。聽說這些都是病友當中的工匠所建造的,就連用石頭鋪設的道路,也都是為了受泥濘所苦的人辛苦做的,是大家齊心協力才鋪好的。能保存這些建築,實在是件好事。不管就公衛史或建築史來說,它們都具有很深刻的意義。

每當深夜的時候,在從工作地點回家的路上,我都可以從柊樹形成的樹籬中間,看到全生園的燈火。為此我常感覺到一種深深的懷舊之情;就像電影散場時,自己覺得當下身在一處聖地一般。

現在日本政府好不容易對這些病患認了錯、謝罪,能這樣真的很好。我忽然想到,在日本各地,除了病患本身之外,包括他們的親人、子女和朋友在至親被強行隔離的情況下,仍須沉默以對之時──那私下偷偷落淚的情景。

--

日曜日は歩くことにしている。歩くといっても、二、三時間の散歩に過ぎないのだが、仕事と距離をとるにはいい。三十分も歩くと、いつの間にか頭がカラッポになっていく。その効果は、次の日机に向かったとたんはっきりした。歩かなかった週は長く重く、歩けば週の中頃まではなんとか持ちこたえられた。

自分の散歩コースの途中に、柊(ひいらぎ)の生け垣にかこまれた場所がある。ハンセン病療養所の国立多摩全生園である。門は既に開放され、柊の生け垣は低く刈りそろえられていたが、僕は中に入るのをためらっていた。ハンセン病については常識程度に知っていた。感染力はとても弱く、もはや不治でもなく、政府の患者隔離政策は世間に恐怖と偏見を植え付けただけで、病気の根絶にはまったく寄与しなかったことなど。

しかし、生け垣の中を直視する覚悟と資格が自分にあるとは思えなかった。好奇の対象にするのは無礼すぎる。

僕がはじめて全生園に足を踏み入れたのは、「もののけ姫」の最中だった。仕事が重く、はかどらず、歩いても間歇的に不安がつきあげて来て、頭は堂々めぐりをやめようとしない。何がきっかけだったのか、僕は突然思い立って、早春のおそい午後に生け垣の中へ入っていった。

最初に目をひかれたのは、巨きな桜の並木だった。幹は西陽(にしび)に染まって輝き。芽吹き前の梢ははるか高く空に展(ひろ)がっていた。

なんという生命力だろう。僕は圧倒され、畏(おそ)れに近い感情におそわれて、その日はそれだけで引き返してしまった。

次の週も僕はそこへ行った。資料館にも息をひそめて入った。予想をこえていた。
沈黙の中に、ハンセン病と向きあった人々の記録がつづられている。究極の人間の高貴さと共に、社会の愚かさもあわせてそこにあった。

何より心を打たれたのは、たしかに生きた人々の営みがしるされていることだった。どんな苦しみの中にも、喜びや笑いも又あるのだ。曖昧になりがちな人間の生が、これほどくっきりと見える場所はない。
おろそかに生きてはならない。

先達に諭された若者のように、素直な気持ちになって僕は資料館を出た。

それから、全生園は僕の大切な場所のひとつになった。日曜の度に園内を歩いた。そこはいつも清潔で静かで、住む人々は皆おだやかで慎ましやかだった。外から訪れる人達の方がさわがしく、どこか傲慢な感じがしたのは僕の思い過ごしかもしれない。

敷地の一角に、使われなくなった建物達が遺されている。入園者の宿舎、親からひき離された子供達」の少年少女宿舎。北条民雄の短歌「望郷歌」の舞台となった分教場、図書館。人々の無念と悲しみがしみ込んでいるはずなのに、少しもおそろしい感じがしない。その前に立つと、厳粛なあたたかい想いが湧き出て来る。どれもいい建物なのだ。

昭和のはじめに建てられたのに、よく残ってくれたと思う。同時代の建物は、東京からほとんど姿を消してしまった。聞けば入園者の大工さん達が建てたのだという。しっかりした敷石も、ぬかるみに苦しむ人のために、みんなで力を合わせて敷いたのだった。この建物達が、ここで保存されたらどんなにかいいだろう。感染症の歴史のためにも、建築史の上からも、とても意味があると思う。

深夜、仕事からの帰り途に、柊の隙間に全生園の灯が見えると、僕は無性になつかしさを感じるようになっていった。映画が終わる頃、そこは自分にとって、一種の聖地になっていたのだ。

日本国政府が、ようやく患者さん達に謝罪した。僕はよかったと思った。そして、患者だった人々だけでなく、親や子や、友を連れ去られ沈黙を強いられた人々が、日本のあちこちで秘かに流している涙を想った。